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小林繁(1952-2010)小林繁さん急死 57歳心不全…「空白の1日」で巨人から阪神へ、沢村賞2回 日本ハムの小林繁投手コーチが17日午前11時、心不全のため、福井市内の病院で死去した。57歳だった。1972年11月に巨人へ入団した小林さんは、76年から右のエースとして長嶋巨人のV2に貢献した。79年に江川卓氏との電撃トレードで阪神へ移籍、同年に22勝を挙げて2度目の沢村賞に輝いた。引退後も近鉄などで投手コーチを務め、09年から日本ハムで2軍投手コーチ、今季から1軍に昇格することになっていた。現役コーチの急死で、球界に大きな衝撃が走った。
突然の訃報(ふほう)に日本ハム・ナイン、そして球界の誰もが絶句した。関係者の話を総合すると、小林さんは17日午前6時半に起床し、8時半頃に背中の痛みを訴えた。マッサージなどで楽になり、いったん起き上がったが、そのまま倒れ意識がなくなった。10時頃、妻・静子さんが救急車を呼び、心肺蘇生(そせい)措置を行ったが、11時に福井市内の病院で息をひき取った。遺体はこの日のうちに自宅に戻った。
前日まで予兆はなかった。16日、都内で行われた日本ハム本社のイベントに出席。参加した選手に声をかけ「今年はブルペンが充実しているからやりがいがある」と気持ちを新たにしていた。多くの選手が「いつも通り元気そうだった」と語っている。
イベント終了後は、すぐに福井へ戻った。地元の関係者に「(体の)調子はあまりよくないけど、大したことはない」と訴えてはいたというが、夜には新加入した外国人投手2人をDVDでチェック。この日は自身が総監督を務める少年野球チームの指導にも訪れる予定だった。
現役時代の小林さんは、右のサイドスローから繰り出す独特のカーブ、シュートを武器にプロ4年目の1976年から2年連続18勝を挙げるなど巨人の右のエースとして活躍。が、78年オフに勃発(ぼっぱつ)した「江川問題」に野球人生を翻弄(ほんろう)された。
11月に、いわゆる「空白の一日」を利用して巨人と電撃契約した江川氏を、翌日のドラフト会議で阪神が1位指名。空前の大混乱を収拾するため、当時の金子鋭コミッショナー(故人)の「強い要望」により、江川氏をトレードで巨人へ移籍させることで決着を見た。交換要員として阪神から指名されたのが小林さんだった。
「同情は買いたくない」と移籍会見で毅然(きぜん)とコメントし、悲劇のヒーローとして国民的人気を得た。移籍1年目にいきなり22勝で最多勝、沢村賞のタイトルを獲得。特に古巣の巨人戦に8勝負けなしと、精神力の強さを見せつけた。
83年に引退後は解説者やタレントとして活躍。97年に球界に復帰し、2001年まで近鉄の投手コーチを務めた。01年には当時高卒2年目だった岩隈を先発に抜てき、この年こそ4勝だったが、翌年からはエース格に成長させた。09年、日本ハムの2軍投手コーチに就任。千葉・鎌ケ谷の寮に単身赴任し、若手を鍛え上げた手腕が評価され、今季から1軍に昇格。近鉄時代にも仕えた梨田監督の下で、リーグ連覇を目指すはずだった。
「江川問題」にも動じなかった強じんな精神力を持ち、時に厳しく指導しながらも選手を思いやった小林さんの雄姿はもう見られない。
◆小林 繁(こばやし・しげる)1952年11月14日、鳥取県生まれ。由良育英高(現鳥取中央育英高)から社会人・全大丸を経て、71年のドラフト6位で巨人に指名され、翌72年11月に入団。79年に江川卓とのトレードで阪神移籍。同年に22勝で最多勝となり、77年に次ぐ2度目の沢村賞受賞。83年限りで引退。95年には「さわやか新党」を結成し、参院選の比例代表に立候補も、当選を果たせなかった。端正なマスクに身長178センチ、体重68キロ(当時)のスリムな体形で野球評論家、スポーツキャスターとしても人気を得た。
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